久世 広周

江戸時代末期の大名。下総関宿藩の第7代藩主。関宿藩久世家7代。
11代将軍徳川家斉に拝謁する。
嘉永4年(1851年)、老中として阿部正弘らと共に諸外国との折衝に当たったが、安政の大獄での一橋派による江戸城不時登城に対する井伊直弼の強圧的な処罰方針に閣老中ただひとり反対するなどしたため、直弼の怒りを買って罷免される。

万延元年(1860年)、桜田門外の変で直弼が暗殺された後、老中安藤信正の推挙を受けて再度老中に就任、信正と共に公武合体政策を推進した。政情不安が進む政局の安定化に努める一方で、長州藩の長井雅楽による「航海遠略策」の支援なども行なった。しかし文久2年(1862年)、安藤が坂下門外の変を機に老中を罷免されるや、その連座および安政の大獄時に閣老の一人であったにも関わらず、井伊直弼の暴挙を止められなかったこと、また公武合体(または外交方針である航海遠略策)の失敗などの責任を問われ、老中を罷免されて失脚した。元治元年(1864年)、失意のうちに死去した。享年46。
人物名 久世 広周(くぜ ひろちか)
年代 文政2年4月12日(1819年5月5日)~元治元年6月25日(1864年7月28日)
備考 関宿藩の國府義胤は、藩主 久世広周に重用され、郷学館の開設をはじめ、幕末期の様々な活動の指示・援護を受けています。
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